良寛ゆかりの地

越後生まれの良寛が玉島にやってきたのは、1779年(安永8年)の22歳の時である。玉島円通寺の国仙和尚の越後巡錫に出会い、出家得度して、師とともに玉島へ来たとされる。以来、良寛は20年近い歳月の間、一心不乱に禅の修業に専念した。円通寺の裏山には、後年になって童と戯れる良寛の像がつくられているが、円通寺での修行時代は、今も残っている良寛堂(当時は衆寮と呼ばれた)で数十人の雲水とともに寝起きする、とても厳しくつらいものであった。名主の子として育った良寛には、その暮らしは耐え難いものであったという。しかし、それでも良寛は作務、托鉢の行持にもくじけることなく修行に没頭し、1790(寛政2)印可の偈を受けた。そして、その証として国仙和尚から一本の杖をもらい、円通寺を去り諸国修行の後、故郷の国上山の五合庵にたどり着く。良寛の数多くの逸話は、ほとんどがここで作られるが、国仙和尚からもらった印可の偈と一本の杖は、今も、良寛の最後を世話した木村家に保存されているという。

(参考)

玉島風土記:森脇正之、岡山歴史の旅百選:吉備人出版、玉島の良寛遺跡案内:森脇正之

禅・現代に生きるもの:紀野一義、倉敷人物百選:森脇正之、聖良寛と玉島:森脇正之

聖僧良寛:森脇正之

 

円通寺本堂と良寛像。円通寺は、元禄11年(1698年)に開山された曹洞宗永平寺派の名刹。永く檀家をもたず、玉島商人から外護を受けた修行の寺であり、良寛をはじめとして多くの雲水が起居した。

良寛堂。玉島時代の良寛は、数多くの雲水の一人で無名の僧。

童と戯れる良寛像。これは良寛を有名にした晩年の逸話。玉島の修行時代にこのような楽しそうな逸話の記録はない。

円通寺から玉島の町が見えるが、良寛はどのような気持ちで見ていたのだろうか。

 

(左)大正橋西の山の中腹にある水月庵跡の仙桂和尚の墓。ここには国仙和尚の墓もあったが、後に倉敷市船倉町の長連寺に移された。

(右)仙桂和尚の墓の隣の良寛書の「仙桂和尚は真の導者」の歌碑。仙桂和尚は座禅も読経もせずいつも畑仕事ばかりして、作物を民衆に供し、僧侶だか百姓だか分からない生活をしていた。若い修行中の良寛にはこれが理解できず無視するような態度をとっていたが、後年越後に帰り玉島時代を振り返り、仙桂の生き方が大変よく理解できるようになり、仙桂そっくりの生き方をするようになる。今に語り継がれている良寛のイメージを作った逸話の原点が、仙桂にあったといってもよい。

倉敷市船倉町の長連寺。国仙和尚が再興した曹洞宗の寺で、国仙和尚の墓がある。

真如庵は国仙和尚が再興し、義提尼を住庵させた。義提尼は寛政3年(1791年)良寛とともに印可の偈を許された。

近藤万丈の生家・菊池酒造。近藤万丈は、江戸に上って学者になり、土佐に旅して良寛と出会った。その様子を日記や「寝覚めの友」に記し、良寛が玉島を去って越後に帰るまで謎となっていた放浪の旅の様子をうかがわせる貴重な逸話となっている。

玉島歴史民話伝説

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