大内谷神田

新倉敷駅の北、作陽大学の北東の谷の県道倉敷笠岡線脇にある。治暦4年(1068年)後三条天皇の大嘗会に神田(主基田とも言い天皇即位の大嘗祭に一度だけ指定され天皇献上用の米を作る田)として選定された。しかし、その後も、普通の田に戻すのはもったいないと、氏神社八幡宮の長尾神社に作物を奉供してきた。現在は、ここを県道が貫通し、貴重な田は失われ、記念碑だけが残っている。この地方では、他に富や八島なども、主基田に選定された記録が残っており、この地域が豊穣の地であったことを物語っている。

(参考)倉敷の民話・伝説:森脇正之、ザ玉島:ホームページ

 

大内谷の神田(主基田)跡。石碑の藤原経衡の歌は「はるかにぞ今行末を思うべき長尾の村の長きためしに」。

県道が出来るまで、神田米が奉供されていた長尾神社。

富。ここは数回主基田に選定されている。富は豊かな漁村の意味であり、そこに主基田が加わり富田ができたとされる。

 

亀山の薬師堂下の墓地に「主基田農之墓」という墓石がある。墓石の背面には、主基田と呼称された農が寄島へ移住して成した偉業が記されている。この八島に主基田が選定された時の、その主かも知れないが、詳細は不明。

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