玉島事変 備中松山藩老熊田恰は、明治維新の戊辰戦争において幕府軍に所属していたため、朝敵の汚名を受けた。幕府軍の戦況が悪くなると、帰国命令が下り、恰は部下150人を率いて海路玉島に帰着した。しかし、待ち受けていた朝廷派備前軍により包囲され、柚木亭(西爽亭)に謹慎させられ、切腹して謝罪するよう勧告された。恰は川田甕江の助言を得て、部下の助命を嘆願し、炎禍が玉島に及ぶことを憂え、慶応4年(1868年)1月22日柚木亭にて自刃した。こうして玉島の地は兵火を免れることができ、住民は恰の遺徳を敬慕し、明治3年(1870年)羽黒神社境内に、熊田神社を奉建した。 (参考)玉島風土記:森脇正之、郷土風土記:宗澤節雄 柚木亭(西爽亭)。現在は西爽亭と呼ばれ、倉敷の文化財として保存されている。 西爽亭の熊田恰が自刃した部屋。天井には飛び散った血の跡が残っている。 川田甕江の生家。甕江は熊田恰の嘆願書の草案を作り、玉島を戦火から救った。 羽黒神社境内に作られた熊田神社。130年経った今も、恰を忘れる人はいない。 |