玉島炭鉱

爪崎の西北の端、八島との境、野呂の山への登り口のところにあり、爪崎「シキ」とも言う。現在は廃坑となり、入口は草で覆われよく分からない。浅野豊太郎が着手し、江戸時代から丹波亀山藩玉島陣屋(玉島山下町)御用達の炭鉱としてあった。褐炭を産出し炭層は一尺で幅も狭かった。明治5年頃は爪崎「藤之家」と称したとの事。その後、昭和14年まで廃坑となっていたが、戦時中に玉島炭鉱として再掘した。戦争が終わり採掘は中止されていたが、昭和25年頃、爪崎の岡田喜久男氏が、従業員6名を雇用し、再び採掘を始めた。しかし、これも残念ながら、石油や他の燃料へと時代が変遷し、現在は廃坑となっている。

(参考)郷土風土記:宗澤節雄

 

3人の後方の草むらの中に、坑道の入口がある。

終戦後炭鉱を再開した岡田氏の子孫の方に説明を聞いた。炭鉱入口から東方50mの田の中に、今も空気孔が井戸となって残っており、坑道はここを通って、爪崎集落の方向へ掘られているという。また、西の北川集落や、北の野呂の方向へも掘られている。子供のころ、坑道の中でトロッコに乗りよく遊んだという話を、なつかしそうにされた。

坑道入口の近くにある「しき店」。坑道を意味する鋪(しき)からきているという。その昔、店の建築の土地の埋め立てに炭鉱から出た土を使ったことや、九州から来た鉱夫がよくこの店に出入りしていたことなどから、自然に「しき」の名前がついたと思われる。食料品から日用雑貨まで何でも手に入り宅配もしてくれ、近所の人には欠かせない大切な店。

玉島山下町の丹波亀山藩の陣屋跡。現在は市街地の中に神社となって残っている。一部民家もその上に建っている。

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