帆落とし天神

今は内陸部に位置する亀山神社と道口神社は、かつては帆落とし天神と呼ばれていた。玉島に干拓が着手される前、亀山から道口の沖は海で、両神社は海に突き出た半島の丘陵にあった。亀山神社ができたのは延宝6年(1678年)であり、その前は天神の鼻と呼ばれ寺社であったようだ。道口神社は創建年代が不明だが、江戸時代はじめ近隣の氏神を合祀し、治暦4(1068)後三条天皇の大嘗会の時、奉幣があったことに基づき、祓戸神(ハラエドカミ)を合祀して、現在の道口八幡宮が形成された。これら両神社は海上の安全を祈願したことが始まりとされ、「帆落とし天神」「帆下げ天神」などと呼ばれ、神社のある岬を通る際は、必ず帆を下げて、天神に祈願しなければ通ってはならない、という決まりがあったということだ。

(参考)ザ玉島:ホームページ

 

神前神社拝殿。夕方になると点灯され、参拝に来る人がいた。拝殿には、県下に2枚とない明治初年の貴重な資料である、日本最後の仇討ち絵馬がある。拝殿両端の箱型厨子の中には2体の木像があり、西側が大祭天神で学問の神、東側が午頭天王で悪疫退散の神である。

神前神社の階段から南方向の集落を見たところ。干拓前このあたりは甕の泊と呼ばれる入海だった。沖を通る船は帆を下げ航海の安全を祈願した。

 

道口神社拝殿。境内東に絵馬堂があり、絵馬3枚が奉納されていた。

道口神社から南方面を俯瞰したところ。干拓前このあたりは道口の津と呼ばれる内海で、道口は富峠を越えて山陽道の矢掛へ抜ける主要街道の基点であった。

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