長尾の百姓一揆 これは玉島付近に残る唯一の百姓一揆。宝暦2年(1752年)長尾村の小作人は飢饉で苦しみ、大地主二家に小作料の減免を願うが受け入れられず、二家の家屋を破壊した。後の代官所(丹波亀山藩の陣屋で玉島五軒屋にあった)による厳しい取り調べの中、二人の青年(新四郎23歳、利兵衛19歳)が主謀者として名乗りでて、罪を一手に引き受け、死罪を執行されることになった。村民は宝満寺住職に減刑を願ってもらおうと、処刑場の高梁川狐島河原へ運んだが、駕籠到着時には、処刑は終わっていた。村民は、この様子を長尾神社から見ながら、二人が赦免されることを祈った。その後長尾善昌寺の梵鐘に二人の法名を記し、境内の牛頭天王社内に霊を祀った。 (参考)玉島風土記:森脇正之、ザ玉島:ホームページ 長尾神社。村民はここで二人の赦免を祈ったが、その時神社北方の松の大木が風もないのに倒れたという。探してみたが跡形ははっきりしなかった。 長尾神社境内から高梁川河原方面を俯瞰。ここで村人が一心に二人の命が救われることを祈ったかと思うと、感慨深いものがある。 玉島五軒屋の丹波亀山藩の陣所跡。今は稲荷神社となっている。 長尾の善昌寺。この一揆以後、百姓たちは宝満寺を離れて、善昌寺の檀家に移ったと言われている。 |