恵み池

天明6年(1786年)、朱子学者西山拙斎が黒崎村沙美を訪れ、村の民や暮らしの様子、風物が純朴で明るく美しく、教えられることが多いことに感動的し、沙美浦の詩に書いて褒め称えた。これに感動した倉敷代官(当時黒崎村は天領で倉敷代官所の治下にあった)菅谷長昌は、実情調査し詩の通りであることを知り、模範地区として幕府に上申した。結果、幕府から白銀二十錠を賜ったが、庄屋源兵衛は村人には分配せず、それを資金として、村民の名誉を忘れないためにと、恵み池を作った。池は田の用水にもなり、瘠せ田は潤い、旱魃もなくなったとのこと。

(参考)倉敷の民話・伝説:森脇正之

 

池の北の一角に、西山拙斎が池の造られた経緯を書いた記念碑が建てられている。そこには、この沙美浦の純朴な風土の紹介や池を造るに至った経緯、池を大切に守っていかなくてはならないことなどが書かれている。

池は八幡山の南麓の集落の中にある。写真は南の土手から北方向を見たところ。思っていたより大きい池だった。

池の北の記念碑の場所から、南方向を見たところ。南土手には水門が作られている。

倉敷アイビースクエアにある倉敷代官所跡の記念碑。当時この地域を管理し、幕府に模範地区として上申した。

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