おい志地蔵

おい志地蔵は、富の西谷の中腹にある。庄屋に女中奉公していたおい志は、庄屋家族全員が外出している最中に、団子をたらふく食べたが、その発覚が恐ろしくなって自殺してしまった。これには、食べている最中に家族が帰ってきたので、あわててのどに詰まらせて窒息死したという説もある。それを知った庄屋が、かわいそうに思い、その霊を弔うために地蔵に祀ったという話。今も、団子をお供えして願をかけると、ご利益があるという。台座には、「おい志童女 元文六酉天三月五日」と刻まれている。元文6年は1741年。

(参考)郷土風土記:宗澤節雄、倉敷の民話・伝説:森脇正之

 

おい志さんは、屋根つきの祠の中にいた。以前は木造だった祠が、今は立派なコンクリートに作り直されていた。祠の中はきれいに掃除され、お供え物もある。住民のおい志さんを思う心が伝ってくる。

地蔵の周辺は畑になっていて、近所の人が農作業をしていた。富の人の中にもおい志さんの逸話は聞いたことがあるが、地蔵の場所を知らない人もいて、これがその地蔵であると話したら、随分と驚かれた。時代の移り変わりを実感する。

地蔵の側の道は、以前歩いて遥照山へ登っていた道だ。今は徒歩で登る人などなく、集落を出ると荒れて道も分からなくなっているという。この道を、地蔵から少し登ったあたりにおい志さんの奉公した庄屋の屋敷があるという。

正面の山のくぼんだところが富峠。おい志さんの頃は、玉島湊から山陽道の矢掛へ抜ける主要街道であった。富はその街道沿いの峠の登り口にある豊かな村で、多くの人や物が行き来した。今の静かな風景からは、想像できない。

玉島の歴史・民話・伝説

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