龍宮の土地

勇崎外新開は寛文6年(1666年)にできたが、しばしば洪水や高潮の被害を受けていた。延宝5年(1677年)にも暴風雨に襲われ堤防の一部が破損し、大決壊も時間の問題と思われた。しかし、村人は身の危険もかえりみず堤防の上にうつ伏して、龍宮姫と弁財天の社を建てるので、大風・高波を鎮めてほしいと龍宮に祈願した。すると、大量の海草が堤防の破損部位をふさぎ、高波の勢いも次第に衰え、難を逃れたということだ。これを松山藩に報告し許可を受け、弁財天の御宝前と名づけた海岸の岩の上に、小社を建て龍宮を勧請した。そして、717大難逃れた記念日として、祭礼の日と定め、神楽を奏し、神前に歓喜の舞を奉納した。明治になり、神仏分離令で、ご神体は、近くの塩釜神社境内に作られた厳島神社に移された。

(参考)倉敷の民話・伝説:森脇正之

 

岩の上に建てられた龍宮。龍宮姫が引っ越して、弘法大師が住んでいる。

岩の上は霊場の札所となっている。地蔵菩薩立像もあって、龍宮を見守っている。

かつて海辺にあった岩場は、周囲を工場の建物や倉庫・駐車場などに囲まれ、かなり努力して探したが見つけることが出来ず、結局地元の地方史研究家に案内してもらって、辿り着くことができた。かつての海岸線は後退して、龍宮は複雑な現代社会に飲み込まれ、誰もが簡単に辿り着けるものではなくなった。

 

(左)岩場の岩は表面が丸く削られている。長い間波や風雨にさらされてきたためと思われ、かつてここが海辺であったことがよく理解できる。

(右)近くの塩釜神社の境内に作られた厳島神社。ここにご神体が移されたということだが、どこかに外泊中で留守だった。

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