高瀬通し

高瀬通しは、船穂町水江の堅盤谷から長尾〜爪崎を経て玉島港に至る総延長約9.1km、幅員57mの運河を兼ねた灌漑用水路である。松山藩主水谷勝宗が、江戸時代前期の正保2年(1645年)に着手した事業で、その後約30年かけて、延宝元年(1673年)に完成させたものである。この用水路を高瀬舟も通ったので、高瀬通しともいう。この用水開削の目的は、高梁川河口一帯に開発された新田の水の確保と、松山と玉島間の物資輸送航路の構築であった。高瀬通しの水位調節は、堅盤谷の一の口とその下流350m地点の二の口、それに玉島港の三ヶ所の水門によって行われ、閘門式が採用されていた。このパナマ運河と同じ方式が、それより240年も前にいち早く実践されていたことは驚くべきことであり、郷土の大きな誇りでもある。高瀬舟による下り荷は、主に米や炭、鋼材などで、帰り荷は塩や海産物などの一般生活物資であったが、昭和3年(1928年)に伯備線が開通して次第に航路としての機能は失われていき、昭和18年頃には完全に消滅した。高瀬通しは、北前船と並んで、江戸期の玉島繁栄の基となった。現在も、用水としての機能は維持されており、周辺の田畑にとっては重要な水の供給源となっている。しかし、交通網の発達や宅地開発により、用水の改修が進み、上を道路にするため暗渠になったり、埋め立てられて道路や宅地となったところもある。

(参考)玉島風土記:森脇正之、岡山県の埋もれた史跡:小出公大

 

船穂町水江堅盤谷の一の口水門。今も残っている小屋から高瀬通しを俯瞰。

一の口から350m下流の二の口水門。ここから一の口までが舟溜まりとなっており、水門を閉じて水をため、水勢を一時的に強めて舟を下降させた。閘門式という方式。

船穂の町の中を流れる高瀬通しは現在暗渠となり、その上を自動車道が通っている。

長尾の町の中では、水路に橋が架けられ駐車場になっていたり、その上にごみステーションや消防機庫、倉庫などが建てられ、生活に密着した形で有効利用されている。

爪崎では八島方面に水を供給する樋門がみられる。松山藩が備前藩に、高瀬通しの堤防を築くため七島(当時備前藩に所属)一島を土砂の採取用に求めたが受け入れられず、その後高瀬通しの水は八島側には与えないという方針がとられた。ここに樋門が設けられたのは、ずっと後の昭和になってからのこと。

新倉敷駅西方の土手に残っているはぜの木。備前藩との国境に植えられている。はぜの木が植えられた理由は、諸説あるが、中でも、水をやらないためにうるしの木を植えて近寄れないようにしたという話は面白い。

国道2号線から南へ行くと、阿賀崎の玉島武道館前で、高瀬通しは埋め立てられて消滅する。土手はそのまま道路となり南下して舟溜まりの羽黒神社北側まで通じる。水路は埋め立てられて、そこには民家や店舗、マンションなどが建てられていて、面影はまったくない。

羽黒神社北側の舟溜まり跡。現在は埋め立てられ道路や家屋が建っている。当時、玉島の港へは、新町裏から阿弥陀水門を経て出るようになっていた。明治になってからは、地下トンネルができ、そこからも港に出ることができた。

玉島の歴史・民話・伝説

HOME  吉備の国古跡・史跡めぐり  玉島北公民館「やさしい写真講座」2009