玉島の語源

玉島の語源には数説ある。(1)寛永19年(1642年)、松山藩が乙島玉谷の干拓工事中に発見した2個の玉石が語源。(2)干拓以前、松山藩は玉島湊に問屋20軒を指定した。現在の矢出町あたりで、玉石が発見される前から玉島湊という地名が存在していた。(3)乙島の円乗院は、山号を玉島山と言い、これから一帯の高地を玉島山と呼んでいた。(4)阿弥陀水門の堤防工事が難航し、お玉さんという女性が人柱となり、完成した。(5)現在の羽黒山は阿弥陀島とも呼ばれたが、玉島とも呼んだ。元は乙島と柏島の間に浮かぶふっくらとした玉のような島であったという。

(参考)玉島風土記:森脇正之、玉島界隈ぶらり散策:小野敏也

 

乙島の玉谷。ここから出た玉石は西爽亭に秘蔵され、大きな催しの時のみ公開されている。今回は見ることができなかった。

2.玉島湊の雰囲気が残っている矢出町を雨上がりに散策。今は閑静だが、昔は賑わったことと思われる。

円乗院。ここに宝物として保存されている弘安10年(1287年)の殺生禁断の木札に、「〜於玉島浦依佐山〜」と書かれており、当時(鎌倉時代)から玉島の浦と呼ばれていたことが分かる。

 

(左)新町の西の端、昭和橋の東端の北に供養塔が建てられている。お玉さんにはもっと立派なものを、という気がしないでもないが、これもお玉さんの人柄に合っているのかも知れない。いずれにしても、お供え物が絶えることはない。

(右)今は、羽黒山は町の中に埋もれてしまった。住吉山へ登る階段の途中から、かろうじて羽黒神社の屋根が見えた。

玉島の歴史・民話・伝説

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