要害山城

要害山城は道越の陽海山(以前は海に突き出た半島の丘陵で要害山と呼ばれていた)にあった。天正10年(1582年)猿掛城の毛利輝元の武将細川元通が築いた、鴨方鴨山城の出城であった。戦国の世にあっては、内海航路の見張りの役割を持つ重要拠点であったが、慶長5年(1600年)関が原の戦いで、元通が破れ長州に移封され、廃城となった。細川の家臣の多くは、この地に土着して農民になったとされる。城跡は岡山藩池田光政の支配になってからは農耕地となり、道越新田の干拓で平野に囲まれた小高い丘になり、さらに現在の新興住宅地(陽海山ハイツ)へと変貌してきた。

(参考)玉島風土記:森脇正之、郷土風土記:宗澤節雄

 

陽海山山頂はハイツ中心部で、民家の建ち並ぶ中に城跡を示す石碑が残っている。

 

(左)「要害山城跡」と書かれた石碑。民家の玄関前にあり、ここが戦国時代に重要拠点であったことなど、とても考えられない。

(右)石碑の後方に屋根つきの五輪塔がある。確実ではないが、以前から神聖なものと考えられている塔かも知れない。

ハイツ頂上から東方面を見下ろしたところ。眼下に以前海の平野が見え、海上侵入者の重要監視砦だったことが分かる。

東の平地から、陽海山ハイツを見たところ。山の輪郭ははっきりせず、城の跡形も無く、今は閑静な住宅地でしかない。

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